この本ではコミュニケーションを、「おつきあい」と「意思の疎通」とにザックリ二分しており、日本人は前者の「おつきあい」に偏重しすぎだと問題提起しています。
目次
まえがき
第1章 コミュニケーションのできない日本人
第2章 僕は原発推進派である
第3章 曖昧な言葉が生む無責任な世界
第4章 日本はまだ近代国家ではない
第5章 終わりなき日常は終わらない
第6章 自分の頭で考えるー本質論の時代
以下、気になったフレーズを引用し、その感想を述べていきます。
階層や性別、年齢差でわかれているからこそ、本来はそこでコミュニケーションが成立した。
これは確かに分かる気がします。自分のいる立場により、主義主張は異なります。本来なら交わることのない人たちが、議論を交わしても噛み合わないのは当然だと思います。ネット上で繰り広げられる不毛な議論の原因は、ここにあると思います。
薩摩だの長州だの会津だの、いまだに幕末期の確執はのこっているのでしょうか?私が気づいていないだけなのかもしれません。
僕は最近ではもはや古典しか読まなくなってしまったが、その理由は、最初から「言葉の普遍性」が保証されているからだ。
古典は「時の試練」を乗り越えて、現代まで残っています。うわべだけの情報や、浅はかな内容では埋没してしまいます。なので、古典には本質的な内容が多く含まれています。時代を超えて、人々に重要だと認識される内容です。「古典しか読まない」というのはとても理にかなった選択だとは思いますが、いろいろな本に手を出したくなるのが人間の性ってものです(笑)
今は生まれた時から市民だ。
昔は、高額な税金を納めなければ選挙権は得られませんでした。古代ローマでは、戦争に行かなければ市民ではありませんでした。国に貢献してはじめて、市民たることができたのです。投票率低下が嘆かれる現代ですが、参政権を得るために命をかけていた時代もあったです。
インターネットに革命を起こす力などない。
エジプトやリビアやチュニジアでおきた民衆蜂起は、人々の熱意と行動によって支えられていたのだといいます。ネットは、あくまで道具ですからね。革命でもなんでも、成し遂げたいことがあり、意思があり、行動を起こす。そのための道具としてネットがあるのだと思います。決して、インターネットオリエンテッドのこうどうが成功するはずがありません。
「絆」と言えば耳に優しいが、おそらくその根底にあるのは、被災地の人たちが苦労しているのだから自分たちも何か不自由しなくては、という強迫観念だ。
3.11後、テレビのCMが公共広告機構(AC)だけになってしまい、まともなCMが流れなくなってしまったのを覚えています。必要以上に節電したり、やたらに「絆、絆」と言われていました。思い返せば、異様な光景だったかもしれません。必要以上に自分たちを追い詰めているような。
【まとめ】
「コミュニケーションは、要らない」と、かなりキャッチーなタイトルの本でした。内容は、日本人的な考え方や感じ方への批判、といったところでしょうか。人によっては賛同しかねる内容かもしれませんが、新たな視点として読んでみるのも面白いかもしれません。